昭和四十七年五月十日 朝の御理解
X御神戒 「信心する人の真の信心なきこと」
お互い真の信心を目指しての信心の稽古をさせて頂く、やはり目当てがそこでなからてければいけません。
只、信心でさえあればよい。おかげさえ頂けばよいというような信心では真の信心からそれる。だからどこまでも、真の信心とはというところに焦点を置いて、信心の稽古をさせて頂かねばいけません。ですから、まあ信心というても様々な信心が沢山あります。どういうような信心を、そんなら金光様の信心をさせて頂いておるから、真の信心しとるともいえないわけですね。
教祖様の御教えにもとずいて信心すれば、真の信心に間違いないのですけれども。 やはり焦点が違っている人があるとするとそれは、真の信心じゃない。ですから真のおかげ、いわゆる真に有難し、真の有難いというようなものも生まれてくるはずはありません。
御理解第十二節に「神に会おうと思えば庭の口を外へ出てみよ、空が神、下が神」と、拝ませて頂く、又信じさせて頂くというても、そういう神様を信ずるのである。 天地、又はその天地の働き、人間は万物の霊長であるから万物を見て道理に合う信心、そこからいわゆる天地の道理がある。しかも、その天地の道理に合うた生き方、そういう信心をさせて頂こうとこう思う。
様々な信心があるわけですねえ。けれども、まあ、度々引き合いにだして真に相済まんのですけれども、仏教、キリスト教、そのた例えば信心というのが、どこのところに教祖の信心との相違点があるかと、まあ、昨日も仏教が慈悲を説き、キリスト教が神の愛を説いたと、教祖金光大神は神心をを説かれたというような意味で、お話申しましたですねえ。
今日はその例えば、キリストという人は、どういう方であったかというと、大霊能者であったという事。海の水を乾かしてしもうたり、死人を蘇らせる程しのいわゆる霊能的な素晴らしい名人であった事は、これは間違いないようですねえ。自身がまあそれこそ処女受胎によって、キリストという人があるといわれてる位ですからねえ。 もう、実に霊妙不可思議な力を持っておられたわけですねえ。ですから、そういうような累計をたどりますと、おいなりさんの信心でも同じ事なんです。あれはひとつの霊能、不思議な事が見えたり、不思議な事を言うたりとそれで出来てきたわけです そうするとお釈迦様というのは、どういう方かというと、まあ、いうなら思索の人とでも申しましょうかね。深く深くものを思うという事。思索の人、どこまでも、いうなら教学の人、もうキリストとは、そういう意味で正反対です。片一方は霊能者、片一方は教学的な、いわゆる仏教も超哲学だというゆえんがそこにあるわけです。
いわゆる哲理をいよいよ極めたお方なんですね。思索から生まれた神であり仏であるわけなんですね。
そうするとキリストの場合は、キリスト自身の霊能的、霊能者から生まれた神なんです。それを例えば、日本に沢山ある宗教なんかはもう、これの二つの中に入ってしまうですね。もうほとんど。御比礼を頂いているというのは、霊能者的な何々宗、何々会という最近の新興宗教なんかはもう、この霊能的なところから入った宗教ばかり だから信心は信心でも、真の信心という事からするとずっと離れるわけです。その点、例えば、御理解十二節からすると、金光教祖が頂かれた神というのはと、どこまでも神に会いたいと思うなら庭の口を外へ出てみよ、空が神、下が神といわれる神様なんです。しかもその神様の働きをですね、説かれたのです。いわゆる天地の御恩徳天地の道理を説かれたのです。だからその御恩徳を悟らせて貰うて神恩報謝の生活。 だから、ここでいう神恩報謝の生活というのは、仏教だってキリスト教だって、仏恩報謝という言葉を使うでしょうけれども、その神である、仏であるそれが違うのです、対象が。だからですね、只、人間というものは、溺れる者は藁をもつかむとという、そういう真理がですね、例えば、この世では仕方がないけれども、南無阿弥陀仏とさえ言うときゃ、あの世では極楽へ行くぞというふうに、例えば徹頭徹尾説くものですから、溺れる者、藁をもつかむです。
というて南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏を唱えて、あの世での救いを願ったというわけなんです。ですから教祖金光大神のいわれるところと大変そこのところが、相違点であるわけです。
今日はそこのところがあるところにです、私は教祖金光大神の信心を真の信心と皆さんにわかって頂きたいと。
何故真の信心なのか?、それからというて、教祖金光大神の金光教は真の信心だというても、そのたとえば教えに添うた生き方にならなかったら、真の信心にはならないし、真のおかげにも勿論なりません。今のところを皆さんわからにゃいけませんね キリストという方は、どこまでも大霊能者であった。例えていうなら、天理教を例になりましょうかね、これなんかでもやはり日本の大霊能者ですよ。
中山みきという方にはじめからかかられたのが、天理王の命という霊であったわけです。はじめから天理王の命という霊がかかられて、その天理王の命が指図をされた 最近の例では、大仁仏教ですかねえ。主神が天照皇大神というのです。その天照皇大神が自分にかかってきた。だから自分は天照皇大神と同じだと誤信したんですねえ それも例えば、お不動様なんかの信心をしよって、一生懸命お滝の水を頂いたり、拝みよったわけなんです。ところがそれにかかってきたのが、天照皇大神だったのです。そして天照皇大神が指図したわけなんですねえ。だから、そうとうの霊力を持った霊神だったというわけですねえ。それで結局は取りつぶしに合うといった結果になったんですけれどもねえ。
自分がね、それを天照皇大神と思い込むところに間違いがあるのですよ。その霊能者が、そして自分の言うておる事が、もう素晴らしい神とか仏とか感じるわけなんです。それをそんなら低級なところから言うと、そんなら、そこらへんのお不動さんとか、お稲荷さんというのは皆んなそうですよ。自分に成田の不動がかかってきたというて、さあ右だ左だというて、まあ当たるも八卦、当たらぬも八卦でその教えるといったような霊能者。そういう意味でです、キリストは大霊能者であったという事、それからお釈迦様の場合は、これとはっきりした事ですねえ、それこそ菩提樹の下に座ったきりで思いに思い続けられたわけです。そして開けてきた。だから超哲学だといわれるわけです。
だからお釈迦様は思索の人だと今日は、そこから生まれた仏様なんです。ですから成程、おかげが頂けないはずなんです。
もう、とにかく、悟りさえ開いて達観するといったような事からです、難儀も難儀と感じんといったような、その人はそれで助かるかもしれんけれども、そういう心になられたのにもかかわらず、御利益というのは、ついてきてないという事です。おかげが伴うてないわけなんです。いわゆる真の信心じゃないから、真のおかげが伴わないわけなんです。
教祖金光大神の場合は、そこのところが真の信心になれはなる程です、真のおかげがここに伴うてくるわけなんです。
私は青年時代から、あらゆる宗教書を好きですから読みました。そして結局金光大神の信心の一番素晴らしいというものを感じたのは、教祖の場合はですね、もう、只実意丁寧神信心をなさったという事ですよ。もう、ごまかしではないです、全然。
その実意丁寧神信心のお姿があまりにも素晴らしいわけなんです。もう、自分は金神様と思い込んで拝みよんなさる。もう実に素直です。金神信仰からはじめられて、その金神様がです教祖の心の状態というものが進んでいかれるに従って、御神格が変わっていかれるところにですね、もう絶対の教祖金光大神の素晴らしさがあるのです はじめからね、天地金乃神がスパ-ッとかかってきたのじゃないです。教祖の御信心がお進みになるに従ってです、金子大明神とか金光大権現とかいうふうに御神格が段々高くなっておいでられた。そしてぎりぎりの天地金乃神と同根というところまでいわゆる生神金光大神という御神格に進まれたというところにね、いわゆるその危なげがない。ごまかしがない。
しかも教えられるところはどこまでも、天地の道理に即応したところから教えを説かれておるわけです。しかもその天地の御恩徳を感じられるというところにおいてはもう、それこそ天の恩だけではない。地の恩に対してあのような敬虔な信心が生まれた。もう天地の御恩徳。しかも天地の大恩とこう言われた。同時にその天地の神様の心と、教祖金光大神が言われる神様の心といわれる天地のいうならば、道理というかというものを段々体得されて、人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせよと。
これは日本では大宗教といわれとる何々というような大きな霊ぶつが教祖にかかっておる。それはね何か、牛が馬かの大霊物だとある宗教学者はいうておる人があります。狐の霊とか、何とかおるでしょうが。だから、それはね、もう、太平洋の真ん中で難船しよるとを拝んだら、その太平洋のね中で難船しとる船をつかみあげる程しの霊力をもっておると。
霊力という事でも、素晴らしい事ですけれども、そんなら真の信心を、それてのそれではないという事です。そこで、だから信心する人は沢山あるけれども、真の信心なき事というておられるわけなんです。
そこでその真の信心をさせてもらやぁ、真のおかげが受けられるというのを私は、天地の働き、神様の働きを大事にするという事と成り行きを大事にすると、事柄をもう神様の御働きとして、御事柄として受けるとかという。だから真の信心の焦点をそこに置くと、真のおかげが必ずついてくるのだと。
いくら真の信心ですよ私の方はというても、真のおかげがついてこなかったらそれはおかしい。もう絶対真のおかげが真の信心にはついてくるのだというようなふうに説きますけれどもね。
私、今日、今朝からお夢を頂いたのに、ここの幹部の方のある御信者さんが木剣を持ってですね、素振りをやっているのです。ところが小さい子猫がひょろひょろとやって来てたから、そしたら、その方が素振りをしている木剣でです、その子猫をパ-ッとこうやられたら、もうそれこそ宙に飛んだですその子猫が。そして落ちた時には真っ二つになってそこに落ちとるというお知らせでした。
猫のお知らせは不浄と言われるのですよね。そして、その方がいわれるのが、「これが天空斬りと申します」と私に説明しよんなさるのです。
そしたらですね、その人の足元の所から、小さい二尺位の蛇がひょろひょろと出てきたんです。それで私が「その蛇も切れ」と申しましたらね、これはね、きっ先がねぶれるからというて切りきらんでおるのです。それを見て私はが、惜しいなあ、それを切らにゃんというておところなんです。
そして今朝から私がそれを御理解として頂くなら、どう頂くだろうかと。お互いがですね、不浄という事は、不成、成就しないことだと言われとります。お互いのおかげが成就しない事。だから真の信心になりゃ、真のおかげが段々成就してくる。それこそ自分が願う以上のおかげというか、真のおかげが成就してくる。
それを例えば、お供えものでも、不浄の掛からないようにお供えるといういわば、おかげを頂くコツあいというのはその人はしっかり握ってるわけなんです。天空斬りでやるわけなんです。
ところがその蛇はめぐりと言われとりますが、自分のめぐりを断つという事は仲々むずかしいとそのう人は言ってるわけです。これはその人だけではなくて誰だって難しいわけです。もう、これが自分のめぐりとわかっておりながら、どうにも出来ないでめぐりに苛まされるわけなんですけれどもね。そのめぐりをいい訳しよる。
きっ先がにねぶるとか何とか言いながら切らん。猫切れる位じゃから、蛇は切れるくさいと言うても、いいやそれは、きっ先がねぶるから切らんと。
そして今日のこの真の信心なき事という事を頂いて、そして御理解十二説を頂いたんです。
金光教の信心がいわゆるその、この信心を極めていけば、必ず真の信心になれるという事。そして、真のおかげが必ず伴うてくるという事を、今日はわかって頂きたいと思うて、相すまん事ですけれども、又、お釈迦様とキリスト様の事を例に申しました。しかし、これはその通りなんですよ。お釈迦様はどこまでも思索の人、キリストというのは、それこそ大変な大霊能者であったという事。そこから生まれた神なのであり、仏なのです。
ですから真のおかげというのが伴わないはずです。けれどもどうして、あんなに沢山な何千年も過ぎておるわけじゃあるけれども、信者を擁したかと言うと、人間はですね、それこそ溺れる者、藁をも掴むというのでそういう霊能的なものに飛びついたり、又は、この世ではもう仕方がないけれども、あの世で南無阿弥陀仏の信心さえすれば極楽行きが間違いないと言われるから、飛びついたから沢山な信者を擁したという事だけなんですよ。
そしておかげを表しきらんけん、御利益てんなんてんな、それは誰宗であるとか、邪教だとか言うのです。それは、成程それもあります。
今、私が天照皇大神がかかってきなさったり何々の命がかかってきなさったりというような、宗祖、教祖的な、そういう信心に伴うてくるところの、やはり御利益があるからこそ、信者が沢山あるのです。
けれども金光教祖の場合の信心なぞは、もうどこまでも生粋であり間違いがないという事なんです。成程、私共がその神様に会おうと思えば、庭の口を外に出てみよ、空が神、下が神という神様なんです。その神様の心を体得された、そしてその神様の心を行じられた。そしたらいよいよ天地の大恩がわかってみえられた。その天地の大恩に感涙されながら、生活されたのが教祖金光大神。
昨夜、ここで告別式がありました。昨日、久留米の井上さんがお届けにみえましたから、アメリカに行っておられるお兄さん、もう六十三才になられる。大変な病気でもう長い事寝ておられた。その間ずっとお届けがあっておりましたがね。
昨日、あちらから電報が参りましてね、亡くなられたと、それで、丁度昨日の朝、あちらで告別式があっておる。だから丁度、アメリカの朝がこちらでは夕べに当たるわけなんです。だからそれにあわせてともう、急な事でしたから、家族の方と、近くにおられる兄弟とが集まられてあただに、お供えものもんか用意されてから、霊様としてお祀りしてくれという事でしたから、もう略式ながら還霊もさせてもらうし、告別式の形をとらせて頂いたわけなんです。
お願いにみえてから、兄が亡くなったという時には、母には、もう言う事はあまりに酷だと言うのでね、私もそうですねえ、遠く離れているのでいわんでもと思うたけれども、御神意をお伺いさせて頂いたら、やはりおばあちゃんの心の上にお繰り合わを願って、言わなきゃいけないと。もう、それこそやはり、親と子程縁が深い事はないし、親の情と言うのは、何にもました情というのが、それでおばあちゃんにもいわれて、家族中でお参りしてみえられました。
そのお届けもさせてもらいよりましてね、もう本当に告別式が終わって、おばあちゃんをはじめ、皆さんにどういうふうにその悲しみからをね、少しでも楽になられるように御理解させて頂こうかと。もう、言いようがないですねえ。そういう悲しみの時には、そしたら神様から頂きます事がね、人間が死んだらね、もう時間、空間がないのだと、だからもう魂は、おばあちゃん、久留米へ帰っておられるよと。しかもほんに遠く離れとるからという事も何もない。時間もなからなければ、空間もない。
同時に人間としての肉体の痛い痒いという苦しみがさらさらなくなっておられる、死んだら。けれどもね、その死んだ境から霊の厳しい修行というのは、もう、その場からはじまるのだと。人間的な痛いとか痒いとか、病気の苦しみというのはないけれども、もう亡くなったその場から、霊としての修行がはじまる。
丁度、その昼みえてお届けになった時に、私が頂きます事がね、昔は、田植えの時ショロ縄を使ったでしょう。その新しいショロ縄を田の中にポ-ンと入れるところを頂いた。ははあ、田植えという事は人とが亡くなる時のお知らせですからね、しかも成程、御理解に頂きますように、生きとる間の苦しみというのはなくなるけれども霊としての厳しい修行がはじまるというわけです。
そこでね、縄を引っ張って間違いのないように、よがまんように、このショロ縄に合わせて真っ直ぐに霊ながらの道を歩かせて頂く事を後々の者の信心で間違わぬようおかげ頂けという御理解でした。
もう私は、そういう適切な御理解を頂いて、おばあちゃん、ここで思わにゃならん事は、死るとか生きるとかいう事はね、それこそ親が先だったり子供が先だったり、思うようにならんのが浮世なのだ。けれどもね、その子供ではあるけれども、六十にまで生のおかげを頂かれた事に対するお礼と、神様のお働きに長い間、お取次を頂き続けられて、金光大神の御取次の働きの中に亡くなられたのであるから、一分一厘間違いのない働きの中にお国替えされたんですよ。考えてごらんなさい。前の日だったら、久留米の大祭だったでしょうが、さあ明日だったら十日のお月次祭よ、そして夜仕えてくれと、あちらが朝ならこちらは夜ですから。とてもぬうようにして、昨日の夜という事を神様が選んでおって下さる。そういう例えば、死ぬるにも先日から申しますように、成程、無情の風は時を嫌わんというけれども、金光大神の道は無情の風に時を嫌わすとおっしゃるようなおかげを頂いておるところをみると、神様の御働きの中に、お国替えされたという事がわかるじゃないかと。
だからやはりお礼を申し上げねばいけんというて、まあお話をした事ですけどね。 とてもそういうおかげは真の信心でなからなねば、頂けないです。それこそ無情の風に時を嫌わす程しのおかげは真の信心より、天地が自由になって下さる、真の信心さしてもらうから、成程、それは人間の見た目には悲しい事であったり、難儀でありますけれども、その難儀の後先というものをです、わからせて頂けば頂く程、成程、止むにやまれん神様の御働きの中に、しかも神様の懐の中で起きておる事実をね体験させてもらう時にです、その悲しみも又、悲しいけれども有難いという事になる。
そういう信心を、私は真の信心と言うのだと思うです。信心する人の真の信心なき事と。金光教以外の宗教を、いろいろ例に申しましたけれども、成程、教祖金光大神がです、天地金乃神様のお心をわかられたら、いよいよ和賀心時代を世界に広め、和賀心時代を創るとおおせられる、その真意がわからせて頂く気がいたします。
溺れる者、藁をも掴む的なものでなくてです、縋れば絶対のおかげが約束されてある。しかもです、たとえば霊妙不可思議な、霊能的といったようなものではなくてです、どこまでも天地の大神霊にお縋りしてからのおかげであるという事。
そこからいよいよ天地の大恩がわかり、天地の道理がわかり、いよいよ道理に合うた信心、又は御恩徳にいよいよ、神恩報謝の生活をさせて頂くという事がです、真の信心であるという事を、他の宗教、宗派を例にとって、いや金光様の御信心が真の信心だと、だけではなくてです、そういういわゆる理路整然としてです、わからせて頂くような、成程、真の信心じゃろうかのというところを聞いて頂いたわけですね。
どうぞ。